文明・文化、そして日本の若者たち

文明・文化、そして日本の若者たち

どうも久万です。

以前の記事で文明と文化について小説家・司馬遼太郎さんの考えを参考に考えましました。

文明という普遍的な皮が、文化という異なる非合理性を持ち合わせたあんこを覆っている。そして、そのあんこが徐々に無くなり身のないまんじゅうのような社会になってきています。

身のないまんじゅうは実際には少し意味に齟齬があるかもしれません。というのも、文明化された社会では昔も今も人間の生産性を上げ生活、時代精神を向上する一助になっていたからです。

今の私たちは「みんながやっているから」、「社会全般で当たり前とされているから」という基準で物事を判断している人が多いと思います。

私はそのようなプロセスを辿っていることが、文明化された人間の集団を作り出し、どこか物足らなさを感させる世の中になってしまったのかなと感じているわけです。

私の感性の問題であるのかもしれませんが。

 

日本の独特な文明化

 

文明開化という言葉は高校の教科書にも載っていることです。明治の日本に、西洋の文明が入ってくることによって新たな慣習やルールが国の秩序と国民の精神文化に大きな影響を与えるようになりましました。

文明という概念は非物質的であることが多く、人間にとって普遍的な事象であることだとすると、文化とは非合理的であり非普遍的なものを指します。

その文化の中にも物資的文化と非物質的文化があると言われています。

非物質的文化ではさらに、社会規範や社会行動を規制する制度的な文化がある一方で人間が象徴的な存在を通して超自然的な存在である価値観・審美眼を対象化する文化があります。

日本の精神文化を踏まえると、明治維新の過程で日本が開国に至り西洋の文明を受け入れたことは大きなインパクトを与えたわけです。

日本人の生き方、アイデンティティ、衣食住、宗教、哲学など、かつての日本人にとって西洋人のもたらした文明化は多大な影響力を持っていたと思います。

日本は明治にかけて今まで島国にだけ閉じ込めていた日本人の文明・文化を変化せざるを得ない状況になったわけです。

私たち若者の文明、そして文化

私たちが生まれた時代はテクノロジーを中心とした文明化でしました。情報産業の発達と共に世界に文明的なモノが普及し始めた時代です。

2000年代に生まれた私たちは丁度インターネットの黎明期に生まれましました。物ごごろがつく頃には、世界中のほとんどあらゆることが即時にデバイスに飛び込むのが当たり前となりましました。

私たちの生きる2000年代初頭というのは、コンピューター、インターネットを取り巻く発達が文明の象徴化としてあるのではないでしょうか。

そして、この文明がもたらしたことは有史以来極めて大きな社会の変化であると思います。

私たちの生活を変え、人との関わり合いを変え、世界が密接になった気がします。

この文明化に私は良いも悪いも無いと思っています。しかし、文明化によって薄味の味噌汁のようになってしまっている文化にやり場のない気持ちになります。

近年、大流行しているSNSがもたらしたシェアすることの概念が、文化的な非合理性や普遍的でないものを表舞台に出させ多くの人に知ってもらう場となっていると思います。

産業革命でもたらされた機械による生産プロセスは、生産の質・量を圧倒的に変え産業の発達を促しましたが、社会全体の思惑や個人の声を発信する場が限られていましました。

今では、ネット一つで自分から情報を発信できる時代です。

知の共有が当たり前となった時代になり、これこそが私たちの時代を生きる上で重要なカギになるのかもしれません。