《司馬遼太郎が語る》文明がもたらす事象の画一化

《司馬遼太郎が語る》文明がもたらす事象の画一化

どうも久万です。

日本の小説家である司馬遼太郎(1923年-1996年)をご存知でしょうか。司馬さんは私が高校生の時に影響を受けた大河ドラマ「龍馬伝」をきっかけに知りましました。

司馬さんの代表作でもある「竜馬がゆく」では幕末維新の傑物、坂本龍馬の一生が描かれています。私はこの作品のストーリー、特に司馬さんが描く龍馬の人物像に魅了されましました。この作品を一度読んだことがある人は、他の司馬作品の特徴的な物語の描き方に引き込まれるのではないでしょうか。

私は他にも吉田松陰と高杉晋作を描いた「世に棲む日々、日本社会の成り立ちについて書かれた「この国のかたち」が愛読書です。

司馬遼太郎が記した文明・文化について

 

私たちの生きる現代社会において文明・文化というものは社会に漂う空気のようなものです。

文明・文化について司馬さんの作品では、以下のように紹介されています。

文明・・・誰もが参加できる普遍的な事象、合理的なもの、機能的なもの

文化・・・他から見たら不合理に映るもの、民族や国家など特定の集団にとっては普遍的なもの、普遍的でないもの

司馬さんが記した文明と文化は世界全体を見渡し、今の社会を考える上で重要なテーマを投げかけてくれていると思います。

司馬さんは文明と文化の具体例についても紹介しています。

例えば青信号で人や車は進み、赤で信号は停止します。この場合の交通信号は文明であります。

司馬遼太郎

 

逆に文化とは、日本でいう、婦人がふすまをあけるとき,両ひざをつき、両手であけるようなものであります。立ってあけてもいいという、合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ、文化の発光物質なのであります。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅に持ち込むわけにいかない。だからこそ文化であるといえます。 司馬遼太郎

 

文明とは国境を越えて人種や宗教が違う人間同士が共通に認識していることと説明できます。

一方、文化とは限定的なコミュニティにおいて認識されるものであって、そのコミュニティに属さない人間にとっては非合理的に感じ決して普遍的な事象であるとは言えないでしょう。

最近では、文明的な意味付けを持つものとしてスマートフォンを容易に想像できるかと思います。人々はスマホを通じて、何かしらの情報技術に触れることが当たり前になってきましました。世界中の人々が普遍的なモノとして認識するスマホは現代の文明社会を象徴するモノとなります。

文明社会に生きる21世紀の若者たち

 

均質化され普遍的に認識される文明体に囲まれながら生きてきた若者にとって文化とは遠い存在であるかもしれません。

私は1997年に生まれましたが、物心がついた時から現在に至るまで(20歳)日本の文化的なものに触れる機会は一世代昔の人と比較するとめっぽう減少したと感じています。

日本の文化とは何かと考えると、年を越すときは年越し蕎麦を食べ、お正月にはおせち料理を食べ、お年玉をもらう。

年末24/25日はクリスマスが日本でもビックイベントになります。クリスマスは元々、西洋からやってきたイベントなので日本文化とは直接的に関係は無いものであるはずなのに、これまた日本人の物珍しさ、そして新しいものを取り入れてみようというモノ好きさからクリスマス行事が当たり前のように毎日行われています。

日本文化がどこに残っているのかと考えるのはナンセンスな問いで、日本文化と文明が交わることによって表出する社会的な事象は何かという視点で考えて見ます。するとそれは、人間性の均質化による個性の埋没化が助長されることだと私は考えます。

というのも、文明の発達によって私たちは高度な人間社会に生きているわけでその高度化された文明では生活にある水準が設けられている。その設けられた生活の水準を満たすために経済活動をし、文明の循環器として役割を担っているのでしょう。

文明の発達によって均質である事象を人々が共用することで、グローバル規模で人間性も同質化し個人の考えかたや生き方に多様性が喪失されているのではないでしょうか。
文明がもららす事象の画一化

私たち若者はいかに生きるべきか、自己に問うべき大きな課題になりそうです。