夢を追い、志を立てる

夢を追い、志を立てる

先日、リスクテイカー(リスクをとり、挑戦する人)に関する記事を読んでいたら面白い記事を見かけましました。

記事の筆者はソフトバンク 孫正義社長の弟、孫泰蔵氏でしました。

マイクロソフト会長 ビルゲイツ氏が孫正義社長に、同じ事業家としてリスクを取り成功を収めてきたことに賛辞を送ったことについて、言及しています。→記事はこちら

記事の中で、夢と志の違いについて弟の孫泰蔵氏が言及していましました。

夢と志は、混同して考えてしまいがちですが、具体的に何が夢で志なのか、文中で紹介されています。

夢は自分が追いたいこと、志はみんなで叶えること

まずは夢を見ること

参考の記事はこちら

夢はあくまでも個人的な願望であり、志はそこに社会的な意義を重ねたものを言います。たとえば「将来プロサッカー選手になって活躍したい」という夢を持った少年が、大きくなって実力をつけ、プロサッカー選手としてデビューした後いろいろな経験を積むうちに視野が広がり、最終的に「世界最高峰のリーグで様々なノウハウを学び、それを自国に持ち帰って自国のサッカーのレベルを上げ、貧困にあえぐ多くの子供達に夢と希望を持たせたい」という目標を持つようになったとき、それは個人の願望が社会的な意義を帯びて「志」へと転化しています。つまり、志とは、自分の願望に社会の大義を重ねあわせることによって単なる自分の欲望をなにか実現に値する価値のあるものへと昇華させ、その価値の実現にむけて自分の人生を捧げるというコミットメント(決意表明)なのです。

ちなみに孫家ではよくそれを「究極の自己満足」と言い換えて使います。「自己満足」という言葉には自分さえよければいい、というニュアンスがあって普通は決して良い意味では使われませんが、その自己満足も究極まで突き詰めると、自分さえよければいいというのでは満足できず、自分の愛するまわりの人々もハッピーな方がいいし、もっといえば社会全体がハッピーな方がいいに決まってる、そうじゃないと満足できない、となり、「志とは社会性を帯びた己の夢である」という意味が「自己満足」という言葉のネガティブな意味によって逆説的に非常に際立って浮き上がるため、よく好んで使います。

成功するならやるけど成功しないならやらない、というレベルのことではなく自分の人生を生きる意味そのものになっていく、というのが結論です。

長い引用ですが、孫泰蔵氏は夢と志の違いを論理的に説明されています。

勉強になりましたね〜。

夢は自分が叶えたい願望であり、志は社会的な意義のあることに自分の夢を重ねていくこと。

よく「夢を持て」、「志を立てろ」という文言を見かけますが、夢を持ち、夢を実現してから、その夢を社会的に意味付けできることに昇華するのが理想なのでしょう。

すると、若者にとって人生とは何かを考えたとき、自分が叶えたい夢は何かを見つめ、その夢になるだけ全力で向かうこと。

身体的な理由や、経済的な理由でその夢を追うことができないこともあるでしょう。

その気持ちは分かりますし、自分も当事者だと思っています。

しかし、最大限の努力をすること。言い訳は言い訳にしかなりません。

社会はなんだかんだ結果しか見ていませんから。

そして、その夢が100%叶うことがなくても、その辿ってきた道が新たな道を開き、長い目で志を果たすことに繋がるからです。

最後に

私の尊敬する孫正義氏の言葉です。

自分一人のものが夢。みんなで共有できる夢が志です。